劇団江戸間十畳、劇団と冠ついているので当然ですが江戸間十畳は劇団です。

劇団とは、「劇」主に舞台演劇を主とする団体。

海外では劇場に付属し演劇を行う団体。限りなく英語っぽく日本語でいえばシアターのカンパニー。

でしょうか。何となくお察しいただければ幸いです。

しかし、これは僕の持論ですが劇的な団体ではありません。むしろ劇をするのですから劇的な「劇の様なもの」をする団体であってはいけないでしょう。きちんと劇でないと。

もちろん我々江戸間十畳は劇場に付属している劇団ではありません。日本には、そういう劇団は少ないですね。割合からいえば限りなく無いに等しいでしょう。任意団体の劇団も数に含めるとそりゃまあ、事業として年中公演をし続けられる劇団は無いに等しいという。

劇場があって、演出家がいて、制作部があり、営業部があって、所属俳優も沢山いて、一年中公演できるレパートリーシステムを有する。つまり演劇という商品を売り続けられる企業としての劇団というのは、日本では有名な所で劇団四季や文学座などがありますが、実際は非常に難しいわけです。

勿論、テレビ局や大手制作会社が打つ興行は商業演劇となり俳優もスタッフも仕事として取り組むわけですが、それは企業の一つの側面でありその舞台演劇は、多くの商品の中の一つとなります。主に舞台演劇のみで収益をあげ、俳優が社員(つまりお給料制)として演劇活動をして行く事は、多くの演劇人や劇団がハナから無理だという前提を持ち、その不文律が存在しています。演劇は文化的、芸術的活動でもあるので商品やら収益やらいうと怪訝な顔をする演劇人もいるでしょう。でもそんな事言ったって食えてねーじゃん、です。チケット代が発生した時点でもう商品です。入場料800円とかそういうのであれば話しは別かもしれませんが。演劇の芸術文化的創造は勿論否定はしません。その通りですから。芸術は売り物じゃねえ的なのも取り組む人の人生ですからそれは自由。芸術の定義は「芸術家が言う」という条件を満たしていれば成立するものでもあり、それが売れないエクスキューズであろうがなんだろうが、これが俺の私の芸術だ!でおしまいなのである。

現在の小劇場演劇なんかその不文律の最たる物で、「劇団」という冠のその社会的信用度の薄さったらサガミオリジナルよろしく(こちらの信用度は高い、はずです。)うっすらこれで大丈夫?なのである。

さらにそれが任意団体(つまり法人化されておらず社会的にはサークル的見方をされてしまう)であれば尚更すでに大丈夫ではない。

「ご職業は?」と聞かれて「役者」って答えると「・・・」この・・・は一瞬の「え?役者?役者ってあの、芸能人的な?あれ、そう言えばテレビで、、見た事無い!なんて答えれば良いのだろう」と先方に申し訳ない事に気遣いまでさせてしまう。トドメは「劇団やってまして・・・。」だ。「ああ、そう大変でしょう、頑張って!」と一気に社会的立場がどすんと下がる。役者は自身が商品そのものだから頑張ってという応援はありがたいという理屈はあるが、言い返せない劇団員の心持ちはよくわかる。だって、それ以外バイトしてますってしか言い様がないのだから。キチンと芝居しながら生活出来る様にと手に職をつけたり資格を取ったり賢明な役者も多々居るが最早仕事はそれで「役者」は「仕事」から「生き様」になっていく。格好良く言えば。食えないから仕事から生き様にシフトチェンジだ。それはそれで素晴らしいことだが、「好きな事を仕事にする」的なハウツー本を読んでも食える俳優になるのは非常に困難だ。書いていて自分がゲンナリしてくるわ。

ご職業は?と聞かれて「役者です」とは答えなくなる。答え辛くなる。芝居でもお金貰っているけど収入の大半はこっちだから、職業は・・・という。皆が皆そうなのかわからないが、聞かれずとも歩いていて「あの人俳優だよね」とひそひそ言われる事を夢見たことが一度も無いなんて役者がいるだろうか。

もちろん何年も継続して公演をし、お客様を掴んで素晴らしい演劇を定期的に上演している劇団も多い。海外でも評価されたり○○演劇賞なんかを獲得し、ちったぁ名の知れた劇団よぉっと啖呵切られても思わず「よぉっ!」と言ってしまう様な劇団は確かにある。しかしながらそのような功績を持つ劇団でさえ「劇団員」は「演劇」で家賃を払ったり、飯が食えたり、よもや家族を養うなんて。という以ての外感満載である事は否めない。

まるきり夢の無い話しをしている様だが「劇団員」は金はなくとも夢がある。出た、危ない。無責任語録。それでお腹いっぱいになるのかと世間様にいわれてしまう、それでも舞台の上じゃ誰よりも生き生きとしている者なのですよ。さりとて食えない事実は、高い障壁となって眼前にそびえ立っている。

それで構わないっていうならそれでよい。先ほどのお芸術の話しと同じ。誰が悪い訳ではないのだ。

それでも芝居がしたいのだ。そしてどうの仕様もない事にノルマなる制度で自分でお金払って舞台に立つという不可解な現象が起こる。最早それを世間では発表会というのだ。仕事でも何でもない。

さすがにそれはどうなのかと、ちったぁ名の知れた劇団になると今度は、こぞって助成金を手に入れる為に躍起になってくる。演劇という文化振興に国がお金を出してくれるっていうのだから有り難い。芸術は国が守るべきだ。

となるのでしょう。助成金の書類作成講座なんていう見事な隙間産業まで出て来て恐れ入る。これで集客がもし悪くて売上げが低くても助かるよね、助成金おりたから。実際耳にする言葉なだけに、そうなのか。良い作品を創作してお客様の心を掴んでファンを増やして売上げをあげてそして仕事として自立していくべきなのではないのだろうか。世間に求められていない作品を「芸術」という庇護の下にすげ替えていないだろうか。自助努力を果たしてしたのか。努力したのは、書類作成だろう。僕個人の持論だけれど、ざっくり演劇というと歌舞伎や能など古典も含まれる訳で、古典芸能は守られて行くべきだと思う。勿論古典であっても「大衆の娯楽であろうというプロ意識」を非常に高くもつ人は計り知れず。劇聖と謳われた九代目市川團十朗が芸術に昇華させるまでは歌舞伎も大衆の娯楽だったわけで。今もそうなのかも知らないが不勉強につきここまで。つまり現代演劇は、自立しなければならない。助成金を申請する事が悪いとは思わない。しかし、無責任に権利の主張をする団体に広く浅く助成する行政のシステムは、実は演劇を衰退させる。この場合の無責任とは、演劇の発展性ではなく自分たちの都合を第一義としていることを言う。また行政に対しなんやかや言っても演劇人は非常に無力だ。政治家でも何でもないのだから。通常の中小企業や零細企業でもそうだろう。事業として中長期の目標や計画を出し、結果、反省、対策を考えに考え抜いてそこにこの助成があれば更なる発展が、延いて業界全体の発展から人々の暮らしが良くなるのだという信念の元に国の助成を受ける。芸術団体への助成は、劇団への助成は演劇界全体の底上げにゆくゆく寄与すると判断された場合にパトロネージュをする事がその本質だと信念する。

劇団は、その為の自助努力をしなければならない。そういう事もせず権利の主張のみでスポンサーが欲しいだの、助成金はどうしたらおりるかだの目先のことしか考えないから、演劇が負のスパイラルから脱却出来ずいつまで経っても「娯楽産業」として自立しないのだ。

食えないなら食える様にどうしたらなれるか、お客様が劇場に来て演劇を本当に楽しんでもらい、もっともっと大衆に浸透するには、劇場が身近になる為にはどうしたらよいか対策するべきだ。

劇団員は、芝居を職業として行きたいはずだ。その為には、自劇団の事だけでなく、小劇場演劇界、いうなれば劇団業界そのものに目を向けて行く必要性を疑う余地はない。

ああ、ほら何だか堅苦しく暑苦しくなった。つまり自立する為の努力をしないと創作はもとよりいつまで経っても劇団や現代演劇に対しての社会の価値基準は動かないぞということ。真摯に演劇に取り組んでいるのだからこの状況を打破して自立する。

劇団江戸間十畳は、本気でそう考えています。その為に劇団員は、劇団員である前に各々が役者であり、役者である前に一社会人としてヒトなのだと。社会人としてキチンとしていて、役者として育ち、劇団員として劇団の発展に貢献できる人財となる。そんな劇団員になって「職業は?」ときかれたら「劇団員」と普通に答えられる様な劇団や社会を作りたい。会社員ですってこたえるじゃない。会社員の人は。そうなったら現代演劇はとても発展するから。

そして、無理だとまったく思っていない。その為に江戸間十畳は会社にしたし、その為の準備を考えて考えて、行けると思ったら後は動くのみ。劇団つくって2年半。3年で会社にしようと夢見ていたが有り難い事に既に会社になって2年。そして今度は、次のステップに踏み出している。

そうして、江戸間十畳の劇団員は、劇団員として江戸間十畳の発展に、役者として自身の人生の発展に繋げていきたい。江戸間十畳の人財である劇団員は、役者として面白ぇのばかりだな。そう言われる様になろうと思います。一事が万事、まずは一事を成し遂げよう。江戸間十畳の劇団員は、意外としんどい、否しっかりした訓練を受けています。しかし、まだまだです。

そして、我々江戸間十畳の役者に対して、芝居に対して我が師匠である代表中井庸友の考えている事は、意外と奥深い。そして、時折意外としょーもない。

このあたりは、次回のヨコタコラムで。

おしまいです。

ヨコタシンゴ